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第六回 救われた動物たちの章

相哀れむという心情
(前月号より続く)

 「この羊、デッド・パイルから引きずり出してきたんです」ロリーは獣医に言った。「どうにか、一晩生き延びたようなのです。おそらく命は助からないでしょうが、せめて人道的な安楽死をと思って」
 獣医は羊をちょっと診察して言った。「熱ばてとひどい脱水症状以外には、これといって悪いところはないようです。息を吹き返せると思いますよ」獣医は羊にいくらか水を飲ませ、ビタミン剤を注射してやった。
 診断は正しかった。二〇分後、羊は立ち上がった。ジーンとロリーは彼女をヒルダと名付け、住まいを与えてやらなければと考え始めていた。
 ちょっと水を与えて日陰で休ませればいいだけの羊を、なぜ捨てる者がいるのか? たとえ食肉処理場に売って金を儲けるだけのためにでも、世話をした方が得ではないのか? 必ずしも、そうではない。バウストン夫妻によると、家畜置場ではいつも、病気になったり怪我をしたり立てなくなったりする動物が出る。中には衰弱のあまり息も絶え絶えということもあり、こんな時にはほとんど手の施しようがない。ところが他の動物たち─ヒルダのように─は、適切な手当をしてやれば簡単に回復できる。しかしせりの日は効率最優先だ。畜産農家は数
十頭から時には数百頭の動物を連れてせりに来る。数頭の弱った動物の必要に心配りするのは、彼らにとって時間の無駄なのである。自立できる動物を売らないと収入にならないのだ。病気や怪我をする動物は予想される範囲の損失であり、生産者は熱ばてや渇きで倒れているだけの彼らをしばしば投げ捨ててしまう。
 ロリーとジーンはヒルダを家に連れて帰り、ヒルダのような動物を世話する避難所の必要を実感して、しばらくしてファーム・サンクチュアリを法人組織にした。二人は家畜置場や食肉処理場巡りを続けた。ほとんど毎回のように、ネグレクト(粗略な扱い、無視)されたあげくに捨てられて瀕死の動物が最低一頭は見つかった。庭先には、続々とこうして救い出された動物たちが増えていった。ヒルダのような羊だけでなく、鶏、七面鳥、若い豚、そして子牛もいた。
 「動物を救出することは、私たちにとっても救いになりました」とジーンは回想する。「食肉処理場の有様を目撃するのは、心が痛みました。動物を救うたびにそんな心が癒やされました。家畜置場や食肉処理場、そして工場農場で何度も目撃したものを考えると、救助動物たちは、本当に私たちの心の平安の拠り所になりました」
 動物たちが増えるにつれて場所は手狭になり、夫妻は数百頭の救助動物を迎え入れられる広大な動物避難所を夢見始めた。一九九〇年、バウストン夫妻の努力は数十人のボランティアと数千人の支持者を集め、数ヵ所を見比べた後にワトキンズ・グレンのそばの農場を買うことになった。そこには八棟の畜舎と、ビジターの会議センターを建てた。人々が農場で一晩を過ごした翌日に動物たちに親しんでもらうために、さらに資金を集めてベッド&ブレックファスト(朝食のみ供する宿泊所)小屋も三棟建てた。畜舎はじきに、バウストン夫妻が住処を提
供しなければ怪我、病気、ネグレクトによって死んでいただろう動物たちでいっぱいになった。
 見学のスクールバスも立ち寄るようになり、大勢の子供たちに動物に親しむ機会を与えた。休暇の家族客たちも訪れた。「動物の里親になって下さい」キャンペーンは、必要な資金づくりに大いに役だった。テレビ番組や全国規模の雑誌がバウストン夫妻の活動を報じ始めると、ファーム・サンクチュアリの会員は数万人に膨れ上がった。

ヒルダ

 ほぼ一杯の水だけで回復したヒルダは、ゴミのように捨てられていた。持ち主が持て余したのである。彼女はバウストン夫妻が救った最初の動物で、「食用動物」の多くが受けている虐待の象徴的存在になった。
 ヒルダは数十頭もの羊と一緒に、トラックの荷台に詰め込まれていた。動物を市場に運ぶときにごく普通に行なわれていることだ。こうしたストレスの強い環境では、それに耐えられない動物が出てくる。バウストン夫妻が家畜置場の記録を調べてみると、ヒルダはここに着いたときに歩けなくなっていたことがわかった。トラックの運転手はヒルダを荷台から引きずり出すと、デッド・パイルに投げ込んだのだ。ヒルダは、ジーンとロリーが発見するまで、約一六時間もパイルに横たわっていた。
 バウストン夫妻は、こうした虐待の事実があれば、地域当局が運転手や家畜置場に対して法的措置をとるのに十分だろうと確信した。しかしまもなく、ぺンシルヴァニアをはじめとするいくつかの州では、家畜は動物虐待法の対象外であることがわかった。動物をまだ息があるうちにデッド・パイルに捨てることは農業では珍しくない、と聞かされたのだ。
 ファーム・サンクチュアリの住人第一号になったヒルダには、残酷で非人間的な環境から救われた他の多くの動物たちが続いた。

アニマル・ハズバンドリー(畜産業)はアニマル・サイエンス(動物科学)に

 約五〇年ほど前まで、大半の農家は動物たちを今日のファーム・サンクチュアリのように扱っていた。当時、農家の生業はアニマル・ハズバンドリー(畜産業)と呼ばれていた。動物たちを養育する義務があったことがわかる。コロラド州立大学の生命倫理計画ディレクターのバーナード・ローリンは、こう書いている。「伝統的な農業では、動物の摂理に反したり、動物を傷つけたりする農法は深く染みついたハズバンドリーの倫理に反するばかりか、はっきりと自分の不利益になって返ってきた」
 ローリンは、過去五〇年の間に、「アニマル・ハズバンドリー」は「アニマル・サイエンス」に取って代わられたと言う。このふたつの言葉の意味は深いところで違っている。アニマル・ハズバンドリーは二〇世紀前半の農業倫理を反映しており、当時農民は、飼っている動物たちに理想的な環境を与えてやるために努力していた。それは必ずしも慈悲心によるものではなく、十分な利益を得るための唯一の方法だったからだ。今日の農家には、しかし、そんな倫理は用無しだ。五〇年にわたる動物科学の研究によって、薬剤、ホルモン剤、体系的な去勢
・烙印・角切りなどの手術、さらに品種改良などの手段が発達した。これらを組み合わせると収益性は向上した。しかし動物たちは、苛酷な過密環境で飼育され、より早く殺されることになった。結果的に、家畜の暮らし向きは、動物科学革命のあおりを受けて悪化したのである。

ノアの箱舟

 一九八六年に結婚して以来、ロリーとジーンのバウストン夫妻は質素に暮らしてきた。二人はグリーンピースのボートで活動中に知り合い、ぜいたくなライフスタイルをもたらす仕事よりも環境保護運動を選んだ。しかしバウストン夫妻は動物救助活動を続けていくにつれて、餌代や獣医師代を稼ぐ必要に追われるようになった。
 コンサート会場でTシャツを売っていた友人がヒントになった。やがて米国北東部で有名ロックバンドがコンサートを行なう度に、二人はバンに豆腐ホットドッグを満載して会場前に駆けつけた。彼らのホットドッグ屋は大成功し、引き取った動物の世話をするのに必要な資金を稼ぐことができた。
 一九九〇年、二人はニューヨーク州北部にファーム・サンクチュアリを設立し、一九九三年には二つ目の農場を開くためにカリフォルニアを訪ねた。二人は、カリフォルニア州オーランドに美しい一二〇ヘクタールの地所を得た。畜舎を五棟建て、四〇ヘクタールをフェンスで囲った。初年度が終わるころには、西海岸ファーム・サンクチュアリは数百頭もの牛、羊、豚、そして鶏を引き取っていた。
 ジーンが残酷行為の実態調査で全国を回っている間、ロリーはたいてい西海岸の新農場を基地に、さまざまな動物救援活動を行なっている。ファーム・サンクチュアリが初めて動物虐待関連の訴訟に勝ったのは、一九九三年、ぺンシルヴァニア州でのことだった。ヒルダを拾った家畜置場が相手だった。
 またロリーとジーンは、ファーム・サンクチュアリにおけるフルタイムのインターンシップ・プログラムを開発した。毎年、ファーム・サンクチュアリは五〇人以上の人々にインターンシップを与えている。インターンは動物の世話をし、ファーム・サンクチュアリの日常活動に参加する。多くのインターンにとって、ファーム・サンクチュアリでの仕事はヴィーガン運動への第一歩であり、動物を助けるためのパートタイムやフルタイムの仕事の手始めである。