身体が奏でる"小川のせせらぎ”"風のそよぎ”
─脈波から生成した自分だけの「癒しサウンド」がリラックス・閃き・集中力を生む─
名古屋工業大学大学院情報工学専攻 伊藤英則教授
生体信号から生まれる、"その人だけの ヒーリングサウンド”を作る「ハートショット」
せせらぎや波の音、風のそよぎなど、自然界の音には人の心を癒す効果があります。その音は規則性であると同時にブレ(カオス性)が潜在し、それが安らぎをもたらすと考えられています。
名古屋工業大学の伊藤英則教授は、脈波や脳波などの生体信号にも規則性とカオス性があることに着目し、人それぞれがもつ脈波を音に変換することで、個々人に適したヒーリングサウンドを生成する音楽システムを開発され、国内外で特許を得られました。
このシステムは瞬間の心を読むとの意味合いから「ハートショット」の名で商品化され、オリジナルのヒーリングサウンドを提供して、聴く人にリラクゼーション・ヒーリング効果をもたらしています。
個人の生体信号から
オリジナルの
癒しサウンドを生成
せせらぎ、潮騒、そよぎ…
「自然界の癒し現象」は
規則性の中に揺らぎがある
──ハートショットによって自分の脈波から作られたサウンドでは「本当によく眠れる、リラックスできる」と聞きまして、そのシステムを開発された伊藤先生にぜひお話を伺い、読者に知らせたいということで宜しくお願い致します。
伊藤 せせらぎ、波の音、風のそよぎなど、自然界には人が安らぐ音がずいぶんあります。
これら自然界の癒しの現象は、カオス(chaos;混沌、無秩序)的といわれ、規則的な周期性の中に無秩序な揺らぎ、いわゆるバラツキ、ブレがあります。
鴨長明が「ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」といいましたが、あれと一緒で、例えば波の中の波を計測すると繰り返し性(周期性)はあるけれども、一つとして同じではない。ちょっとズレている。自然界の癒し現象は、そのバラツキ、ズレがいい頃合なのだろうと考えられます。
しかし、直接、小川のせせらぎや砂浜の潮騒などを採取して音楽や映像を生成してみると、バラツキ(無秩序性・カオス性)が強く、癒し効果としては今一つの結果でした。
血流は体の中のせせらぎ
──脈波など、生体信号にも
規則性とバラツキ
伊藤 もっとバラツキが少ないものを探していく中で、注目したのが脈波や脳波などの、個々の人体が発信している周期性と無秩序性を含んだ生体信号です。
特に注目したのが血流です。血流というのは、体内を流れる「小川のせせらぎ」なんですね。しかも、自然界のカオス性よりも規則性のほうが高い。
それは、血流には、心臓の動きの周期性と無秩序性による波動が存在する上に、身体を流れる途中の血管の枝分かれによって反射や抵抗を受けた波動が幾重にも重なることで動的に変化する中に、「自己相似性(fractal)」が潜んでいるからです。
このことを積極的に利用することで、体内のリズムに合った、より個人に適したヒーリングサウンドを生成することが可能です。
人間の体から出ている信号を サウンドに変換する
伊藤 以上のことから、私たちは身体を流れる血液のヘモグロビン量の時間変化を指先からセンシングし、これを入力として、映像と音楽に変換し出力するシステムを開発しました。
脈の波形には、1000分の1秒レベルの間隔のブレや拍動の強さなどの微妙な変化があり、脈は一つとして同じものはありません。そこで、脈波を基に個人固有の情報を抽出し、脈波の変化を音の高さ強さ、リズムに変換して個人に適したヒーリングサウンドに生成するシステムを開発したわけです。このシステムは既に日本と台湾の特許を得、それが商品化されたものが「ハートショット」というわけです(図1)。
システムは、「生体信号測定」、「カオス特徴解析」、「サウンド・映像生成」の3つから構成されています(図2)。
「生体信号測定」は、カオス特性が存在する指尖脈波を用い、クリップ式の光センサを指先に挟んで指先の血液内のヘモグロビンの流量(指尖脈波)をセンシングします(写真)。
次に、センシングして得られる指尖脈波の時系列数値情報を、
1秒間5000 Hz でリアルタイムにコンピュータに取り込みます。ここでは時系列に入力される波形全体の数値データを一定時間分蓄積し、FIFO(first-in first-out;先入れ先出し)によって、リアルタイムにMIDI(Musical Instrument Digital Interface;電子楽器デジタルインタフェース。電子楽器演奏データを機器間でデジタル転送する世界共通規格)データに変換処理します。
処理の特徴は時系列データの、規則性と無秩序性の特性値から、映像と音楽に変換することです。
センシングには約数10秒、その後の音楽・映像生成には約1分を要します。
生成サウンドと
癒しの効果
自らの身体信号が生成した音で
自らを癒す
伊藤 このシステムでは、自分の身体から発信しているリズムと整合した出力とを用いて、自らを癒すという効果を狙いとしています。
つまり、生成されたサウンド(音)は、必然的に個人の健康状態や心理状態を考慮したものになり、実際に、学生の脳波測定ではリラクゼーションやヒーリング効果が高いことが確認されました。
効果をみる上で、特に私たちが注目したのは、身体リズムの発信源の一つである心臓が、二つの自律神経(交感神経・副交感神経)によって制御されていることから、リラックスと関係する副交感神経とリラックス時の脳波の発生状況でした(図3参照)。
サウンド生成と 「1/fゆらぎ」
伊藤 システムが生成する音楽は作曲上の規則性を段階的に考慮し、サウンド生成においては、生体信号を直接的にMIDIデータに変換する際に、同時音数は、3個まで、音色は、128種類から3個まで、音高範囲は、C3〜C5、音強範囲は、mp〜f、1オクターブは、C、D、E、E♭、F、G、A♭、B♭とするという規則を与えました。
その上で、自然界に存在している音の周波数fとその強度(スペクトルパワー)が、反比例の関係をもつと癒されるとされている「1/fゆらぎ」を積極的に意識し、原材料から「1/fゆらぎ」になるようにしました。
なお、「1/fゆらぎ」とは、揺らぐという意味ではなく、バラバラで、規則性と不規則性が繰り返されるという意味合いを示します。
先程いいました小川の音とか、波の音とか、人に快適感を与える自然界の音には「1/fゆらぎ」があり、心臓の鼓動や脳波にもあります。また、癒し系の歌手など人の声にも現れるといわれます。電車の揺れにもあって、それで人は電車で座ると眠くなるのだともいわれています。
生成したサウンドは生体信号が直接的にMIDIデータに変換されたものですから、何分の何拍子とか、小節とか楽章などの概念はなく、そこは通常の音楽と違うところです。
例示した楽譜のサンプル(図4)も便宜的に表示したもので、血流も「ゆく川のごとく絶えずして、元の血流にあらず」なので、二度と同じ楽譜とはなりません。ちなみに、このサンプル(図4)は、自然界の潮騒で1/fゆらぎをもつ部分(ここでは座間味海岸の潮騒)の特徴を残しつつ、個人の身体信号(ここでは脈波の代わりにα波状態を示す脳波)と整合したものです。
音楽テンポと心拍と、 心身の癒し効果
伊藤 音楽テンポと快適度との関係では、快適度のピークは心拍数の多少に依存するという「同質の原理」は、心拍数が少ないときにはテンポの遅い音楽、心拍数が多いときはテンポの速い音楽が、快適度のピーク値をもたらすという主張です。つまり、快適度とテンポの関係はそのときの気分、心理状況に依存する(気分と同質である)ということです。
音楽、サウンドを聴かせて、その人が一番癒されていると考えられるところは2ヶ所あって、心臓の鼓動(心拍)にピッタリ合わせると体が癒される、心臓の鼓動より少しテンポを遅く(1・3倍あたり)してやると今度は脳が癒されるんです。
ですから、頭が疲れていると思ったら少しテンポの遅い曲を、体を休ませたいなと思うときは心臓の鼓動に合わせたテンポの音楽が良いといえます。
図5は、全被験者のリラックス度の平均値を示したものです。
身体的なリラックス度は脈拍から測定されるHF値が反映し、精神的リラックス度は脳波から測定されるCD値が反映しているとすると、脈音楽テンポ比(μ)が、1・0付近では身体的リラックスがピークとなり、1・3付近では精神的リラックスがピークとなることを示しています。さらに、μが1・3付近の場合であっても、脈拍数が減少するときのほうが、α波の検出が顕著であるという結果を得ることもできました。
α波からみたリラックス度
伊藤 脳波は、心身共にリラックスした状態ではα波(7〜13 Hz)が出ます(表1)。通常、α波は、スロー波(7〜9Hz)、ミッド波(9〜11 Hz)、ファスト波(11〜13 Hz)の周波数帯域に分類され、それぞれ特徴付けがなされています(表2)。
研究室の学生10人に、システム生成サウンド(MS:マイサウンド)を聴かせて脳波(閉眼安静時)を測定したところ、ほとんどの学生はα波が活性化しました(表3)。
さらに、他人の生成サウンド(OS:他人サウンド)を聴かせて比較した実験では、マイサウンドを聴いたときのほうがα波の活性が高いことが確認されました(表4)。
また、10名中8名が無音時より生成サウンド傾聴時がリラックスしていたことがわかりました。
──ハートショットでは1回の脈波測定で、リラックスと発想力と集中力の、3種のサウンドが生成されるということですが?
伊藤 基本的には、1曲目は比較的にスロー波が、2曲目はミッド波が、3曲目はファスト波が出やすいようにアレンジしてあるのですが、それはあくまでも目安です。
実際には、個人がどの曲をどのタイミングで聴くかによって、一番リラックスできたり、一番集中できたりするのかが違ってきますので、あまりこだわらないほうがいいでしょう。
ちなみに、使用したサウンドの種別に依存することなく常に、10名中、2名からはスロー波が、4名からはミッド波が、2名からはファスト波が検出されました。
健康効果と
音楽療法への応用
ストレス解消の重要性と
ハートショットの意義
伊藤 「ストレス社会」といわれる現代では、多くの人々が精神的疲労を感じているといわれ、精神的癒しを求める要求が社会的に高まっています。また、精神的ストレスが生活習慣病をはじめ多くの病気の引き金になっていることもいわれています。
そうした中、ストレスリダクション(ストレスを解放する方法)の重要性が認識され、その一手法として近年、音楽療法が注目を浴びています。
音楽療法では、主にクラシック音楽が扱われていますが、リラクゼーションやヒーリングのためには聴く人の健康状態や心理・精神状態を考慮した音楽が必要だと考えられます。
私たちが開発した、体のリズムとカオス特性からサウンドを生成するシステム(ハートショット)では、人の身体リズムと音楽(サウンド)や映像を整合させることの有効性が確認され、その重要性が示されたものと思います。
日常生活にハートショットを応用するのは、試聴結果からも心身のストレス解消、健康に大いに役立つであろうと思います。
既存の癒し音楽よりも 高いヒーリング効果
──最近はヒーリング音楽がもてはやされ、音楽療法ではクラシックの中でもモーツァルトが良いとかいわれていますが、自身の生体サウンドのほうがより良いといえますか。
伊藤 これも個人差があるのですが、私たちの実験ではかなりの高い割合で、脈波の生成サウンドのほうが良い結果が出ています。
20歳代前半の男子5名と女子5名の10名を対象に、市販されている著名アーティストの癒し音楽と、脈波による音楽を聴いた場合と、さらに無音時の場合とで、3つのα波の含有率を比較してみました。1名だけは無音時にリラックス度が高くなったのですが、この1名を除いた9名中7名は市販の癒し音楽よりもシステム生成サウンドのほうが癒し効果が得られました(表5)。
アンケート・モニター結果と 応用例
伊藤 2006年1月から3月の計9週間、土曜・日曜日に名古屋市郊外6ヶ所で合計597名に、脈波から生成した自分の音楽を視聴してもらい、アンケートに答えてもらいました。
その結果、とても良かったが18%、良かったが60%、なんとも感じないが6%、不快だったが0%、その他が2%、回答なしが14%という好結果を得ました。
用途としては、51%がストレス解消、35%が睡眠導入、12%作業中、および2%が育児──という結果となりました(表6参照)。
このシステムの応用例としては、複数のプロゴルファーやプロ野球選手の集中力強化に用い、また、産婦人科医院では母親の脈波から作成した音楽を育児に用いたり、ホテルやエステサロンのリラックスルーム、鍼灸院など治療院への導入が進んでいます。
神経症に対する 音楽療法への利用
伊藤 平成18年4月1日から5月15日の間に、沖縄県那覇市内病院で門馬康二医師が神経症の被験者49名への本システムを利用した音楽療法を実施しました。
49名の内訳は、うつ状態群7名、不安・緊張群29名、不眠群14名で、評価方法は10段階リッカートスケールの満足度自己評価法によります。
この結果は、のうつ状態群では100%、の不安・緊張群では93・1%、の不眠群では69・3%の被験者が、システムに対して7から10ポイントという高評価を与えました。
なお、の不安・緊張群では69・9%が4から6ポイントを与え、7・77%が1から3ポイントを与えていました。
こうした結果から、今後は医療分野への導入が期待されます。