健康科学の樹立を

――健康とは何か――

健康科学研究所所長・元東京大学医学部教授 大島正光先生

医学・健康に関する研究も息を長く、真実一路

 我が国における航空医学の泰斗として知られる健康科学研究所所長の大島正光先生は、健康科学樹立の提唱者でもいらっしゃいます。
 若い頃は高度一万メートルで侵入し帝都を脅かしたB29を迎撃するためのロケット戦闘機「秋水」テストパイロットを航空医学面からサポート。戦後は、労働科学研究所時代に疲労の研究に集中され、それまで自覚でしかわからなかった精神疲労をフリッカー値で客観的にはかれるようにされました。
 その後、再び航空医学再建のため、乞われて航空自衛隊へ。時代の流れは高空から超高空へ、宇宙に飛び出す宇宙飛行士の健康を支える医学的研究が必要とされるようになってきました。
 そのため大島先生は東京大学教授に籍を移され、ここで巻き込まれた東大紛争でも一肌も二肌も脱ぎ学生と冷静な対話をねばり強くされ、宇宙医学のお立場からは毛利さん、向井さんらの日本人宇宙飛行士選任にもあたりました。
 大島先生のご研究は、長時間をかけたねばり強い「真実一路」の追求として定評があります。

「健康」の定義づけ

大島 私はお蔭様で元気に米寿を迎えることができました。残されている人生はそう長くはありません。今は長い研究生活で積み重ねてきたものすべてを公開して、健康相談にも乗る毎日です。
 「ヒト」を中心に置いた真実一路の研究が進むにつれて、健康といったキーワードにたどりついたのは自然のことだったと思います。
 健康とは空気のような存在であって、とらえどころがないのではないかという声も聞かれました。また、病気になれば、健康のありがたさはわかるので、「疾病でないこと」を健康の概念にするという考え方もありました。しかし私は、他を排除するかたちではなく、健康を定義しようと試みたのです。
 ひとことでいうと「心」「体」「社会生活」の三つの点について「健康である」ことが必要だと確信していました。医学においては、「疾病」と「健康」の両方をバランスよく研究の対象とすることで、医学が双方を対照的に見すぎることなく、最終的には「ヒト」への理解を深めていく方向に進むことを願っていました。
 日本は世界最長寿国になりましたが、本当の意味で健康とはいえない。寝たきりの老人は数十万人単位で存在しています。では、「健康である」ということは、どういうことなのか。
 世界保健機関(WHO)は、健康について「単に病気でないというだけでなく、体や心が健康であるだけでなく、社会的にも健康でなければならない」としています。1948年にこのように定義されました。WHOの定義でいうと、健康とは「心身ともに健全で社会的活動のできること」となります。ところが、心の健全さとはどういうものなのかというと、これがいろいろな問題を含んでいて、簡単に定義することは難しいのですが、自分は健康であると思う、いわゆる「健康感」が、健康という言葉のなかになければいけないのだろうと考えていま
す。「健康だなあ」「幸福だなあ」という思い、人間が感ずるすべての条件が含まれなければならない、と考えています。
 人間は24時間の生理的リズムを持っています。そこへそれを乱すような作業、あるいは遊びがいろいろ入るわけです。そこで変化があった、乱れたというわけだけど、基本的には、人間は24時間の生理的リズムを持っているということがわからなければハッキリはいえない。仕事が終わったときだけ測るような、刹那的な測り方じゃものはわかりません。それをさらに広げてみると、一生測らないと、本当のことはわからないとなります。

健康であることの条件

 私は健康であることの条件について、11項目に整理して発表したことがあります。
(1)生理的リズムの周期が24時間であって、その抑揚が維持されていること
(2)ホメオスタシス(水準維持)の機能が発揮されていること
(3)活動レベルとして生活、勤務、余暇活動ができること
(4)満足すべき健康感を持っていること
(5)環境適応、社会適応、情報適応が維持されていること
(6)正常な人間関係が維持されていること
(7)システム機能としての拮抗性を持っていること
(8)必要とする機能の回復能力を持っていること
(9)社会的活動が可能な程度の形態を備えていること
(10)損耗を補うことができる程度に栄養摂取ができること
(11)疾病のないこと
 順不同で並べてありますが、一つの問題はホメオスタシス機能です。日本語では水準維持とか恒常性になります。恒常性は大脳活動のもっとも根底にある原則です。人間のこの水準維持機能は、動的なのでダイナミック・ホメオスタシスともいわれます。
 ホメオスタシスをわかりやすくいい直すと、人間はある水準を外れたときに、それを元に戻す復元力を持っているという意味です。疲れて人間の機能が低下したときは休憩して回復をはかる。休憩で機能が戻ればホメオスタシスが維持されているということです。よくいわれる「十分な睡眠」とか、「栄養をとれ」というのも、消費されたものの補充という意味で、それでホメオスタシスを維持しているわけです。
 バランスという概念も、ホメオスタシスの原則に帰納されます。いま例にあげた「眠って疲労の回復をはかる」、「食べて栄養を補充する」というのも、また(7)にあげた「システム機能としての拮抗性を持っていること」というのもそうです。拮抗というのは「力・勢力などを互いに張り合うこと」という意味です。「精神活動と肉体活動」、「仕事と遊び」が拮抗の例になるでしょう。
 頭を使った後は体を使う、仕事をした後は遊ぶ、ということで、それをやれれば拮抗性があるということです。
 古い言葉に「過ぎたるは及ばざるが如し」というのがあるでしょう。過ぎるというのと及ばないというのは同じことであるという意味ですね。昔の人はホメオスタシスの原則なんてことは知らなかったが、拮抗のことはよくわかってたんです。
 新しい言葉でも、「ハイテック・アンド・ハイタッチ」。この言葉を使い出したのは、アメリカです。十数年前のことですが、テクノロジーが高度化し、周り中が機械だらけになって、機械とだけつきあって一日が終わってしまう。これがハイテックの意味。これとバランスをとるには、温かい人間関係、つまりハイタッチが必要ということです。
 単なるテックとタッチが拮抗してるのでなく、どちらもハイの水準だというところに、現代の健康が抱えている深刻さがあります。
 (4)の満足すべき健康感を持っていること、についても解説が必要かもしれませんね。健康感というのは、その人が感じているものです。人間はどんなことで自分を健康、不健康と感じているか、ここがわからないといけません。病気であるかないか、よく眠れるか眠れないか、食欲はあるか、気分はどうか、気力はあるか、体調は。それから仕事はうまくいっているか、人間関係は‥‥。とどまるところを知りませんよ。その人の価値基準というか、人生観、世界観、宇宙観まで関わってきます。当然、文化の問題も出てきます。
 健康を明らかにする、科学するというのは、やはりヒトを明らかにする、科学するってことになりますね。真実一路、人間を「見つめる」ということです。
 ついでだから、健康に関わる条件をあげてみましょう。気候、交通、文化、宇宙、産業、栄養、環境、災害、核、森林。ヒトに関わるすべての条件がずらりと並びます。
 当然、健康科学は学際性を持った学問になります。思いつくだけでも、バイオテクノロジー、臨床医学、薬学、人類遺伝学、体力科学、ストレス科学、民族衛生学、プライマリーケア学、リハビリテーション学、心身医学、肥満学、体育科学、人間工学、先天性異常学、矯正学、人間ドック学、医用電子学、公衆衛生学、衛生学、救急医学、災害医学、自動化健康学、行動科学、保健学、保健医学、医療情報学、心理学…。これらが健康科学に関連しています。なんでもかんでも広げて関連づけるのはどうかというご指摘もありますが、この学問はここま
で、と境目をつけることはできません。人間を見るときに、ある枠をはめて、そのなかだけで人間を語るのは現実的じゃない。いつもいってることですが、人間が生きている環境も一緒に見ていく視点が必要です。
健康の尺度作り
 健康を科学するための前提として、なんらかの尺度を作る必要があると考えたことがあります。この考えはいまも変わりませんが、簡単にはいきませんね。具体的には、少なくともまず人間の生理現象を数字におきかえる作業が必要になります。次に人間の知情意という精神機能の数字化、あるいはそれに代わるなにかを見つける、という難問もあります。
 生理現象から見た健康の尺度作りについては、いくつかのポイントがあります。一つは、時間の問題。人間は時間軸の上で動いているわけで、過去のいろいろな現象から影響を受けますね。たとえば、夕べ酒を飲み過ぎたとか、寝不足だとかいったことが今日の体調に影響する。将来からも影響を受けますよ。明日は遊びに行くと思うと楽しくて心が発揚されるし、休息後に仕事に戻らなければならないと思うとテンションが下がってくれない。刹那的な測り方じゃわからないことがあるのは、過去に私がしつこくフリッカー値の測定をしたことからも判
明しています。生理現象を数字化するためには長い時間にわたる研究が不可欠になります。
 もう一つは、循環機能はどうか、消化機能はどうか、呼吸機能はどうか、大脳機能はどうかと、個々の機能の尺度を測るわけですが、それでよいのかという問題です。人間は物質の集まりであり、機能の寄り集まりです。したがって、その機能、物質を全部分析して、いちいちチェックしていくことになるのですが、そこに立ちはだかるのは、「人間」は部分の寄り集まりではないという事実です。個々のいろんなものをインテグレートしている、それが人間です。機能の寄り集まりとして見ていたのでは、本当の人間を見ていることにはならない。個人
の健康の尺度と集団の健康の尺度という問題もあります。日本の場合とくに、尺度というと集団の尺度というほうに目が向いてしまう。その結果、平均値でものをいうことになり、個人という視点が抜けてしまいます。平均値でものをいうということは、一つの架空の集団にものをいうわけで、それこそ平均的な話、一般論になってしまう。その結果「酒を飲むな」「たばこを吸うな」ということになってしまうわけです。
 しかし、個人の場合は、ただ「たばこを吸うな」ではいけなくて、何本吸っていいのか、何本以上はいけないのかという数値を示してあげる必要があります。
 昔は、健康というと十把ひとからげに扱われていて、たとえば具合が悪いと臨床医のところに行っても、いろいろ調べてみて異常がないと「健康ですからお帰りください」となった。しかし、健康を一つに考えず、たとえば5段階に分ける工夫をするとか、「昨日は5だったけど今日は3になっている」と経過を見る作業も必要だと思うんです。
 医者にしてみれば、いままで健康な人を診ていなかったものだから、急に「健康の尺度化」などといわれるとあわててしまうでしょうね。改めて勉強しなければいけない時期に来ていると思います。
 年齢や性など基本条件を考慮することも大切なポイントです。たとえば、若い人と年とった人とを比べた場合、同じ背景で見るわけにはいきません。ある年齢層、性別、地域特性、もっというと学歴やら収入、どういう家に住んでいるか、通勤時間はどのくらいかなど、日常生活においてその個人を特徴づけている条件はもちろん、その個人をとりまく環境、生活といった諸々の条件を考慮したほうが望ましいわけです。
 人間は、たとえば歯が痛くても憂鬱になる。お腹が減っていたり寝不足だったりしても健康状態とはいえなくなってしまう。こう見てくると、いままで考えられていた医者の見方とは違ったものが、そこに確立されていく必要があることがわかります。
 健康を尺度化するというのは一つの目標ですが、そこに至る道のりはきわめて険しいものです。しかし、それは必ず歩かなければならない道であり、努力もしなければならないと思います。
 明治以来、医者はこと病気に関しては熱心にやってきましたが、健康に関しては忘れていたんです。今度は両方を同等に考えるとなると、同じレベルになるまでに100年はかかる。いまは科学が進歩しているから10年くらいでやれるかもしれないけれど、その努力を怠れば、間違った健康への見方で終わってしまう。健康科学の重要性はそこにあり、私の役割もあると思っています。

心身一如という見方

 人間の健康願望は体の健康から心の健康に向かい、幸福感、ウェルネス、安らぎと進み、最終的には宗教と結びついていくかもしれないと思うことがあります。
 私が宗教のことをいうと唐突に聞こえるかもしれませんね。考えているのは、人工的に作られた神でなくて、自然に存在する神のことです。そういうほうを、これからは多くの人が信じていくという意味です。たとえば人間の活性化の手法として、「気」の問題が新しく出てくる可能性があります。波動とか、電磁波とか、いろいろいわれています。サトルエネルギーと絡むテーマですが、このことはあとで触れましょう。
 人間、あるいは健康というものを総合的に理解するための見方としては、いくつかあります。
 一つは、ホリスティック。要するに全体として人間をとらえていく見方です。「進化を促す決定的な力は有機体のような全体であって、それを構成する部分ではない」という説があります。全体として見ないとなにが決定的な力なのかわからなくなる、ということですね。
 二つ目はシステムとしてとらえる見方。循環機能、呼吸機能、大脳機能などを統合したものが人間システムだという考え方です。「健康の尺度作り」のところでも触れましたが、私は人間というシステムは実にオープン・システムである、空間的にも時間的にも、開放型であると理解しています。人間関係、生活環境もそうですが、呼吸も栄養も空間的に外とつながっている。時間的に開放型というのは、過去と未来につながりを持っているという意味です。健康とはなにかを考える上で、この特性が大きな意味を持つというのは、これまでにも述べてき
ました。
 人間をシステムとしてとらえて、コンピューター・システムのような機械システムと比較すると、いろいろなことがわかってきます。
 コンピューター・システムが人間に及ぼす影響として、柔軟性を失わせる、創造性を喪失させる、データを判断するときに背景を考えなくなる傾向が出る、人間同士のコミュニケーションが欠ける、などがいわれています。心が不健康な状態になっていくことを示していますが、こういうことは二つのシステムを比較してみないと明らかになりません。
 人間を総合的に理解する三つ目の見方は「心身一如」。一如は一体で分かれていない、心と体は別々の機能を持っているが、一つのものとしてとらえろという意味です。体には心が、心には体が投影されているということですね。現れ方には個人差があるが、心になにかを思ったときには、必ず体にそれが現れます。体がおかしくなると心にもそれが投影される。
 健康というのは、従って心身一如なんです。たとえば、「生活ができる、仕事ができる、スポーツなどを楽しむことができる」、が健康の一つのしるしだとすると、心にはそのための精神力、体にはそのための体力があることが条件で、これが望ましい心身一如なんです。
 ストレス(疲労)を心身で見ますと、体のストレスは回復しやすいが、心のストレスは回復しにくい性質があります。心身一如のためには、ただ睡眠をとるだけでは不十分なんですね。森林浴、海水浴など自然との接触を深める、生き甲斐のある生活を見つける、人間的接触を広げる、あるいは思い切って職業を変える、こういうことさえ必要になります。
 昔の人は「健康な体に健康な心が宿る」といいましたが、あれは「宿ってほしい」という願望を表していたんです。そのためにはどうするか。努力しなければならないというのが正しい発想です。健康な体に健康な心を宿すことの努力、これが人生をより良く生きるために不可欠です。

私が勧める「心の健康法」27項目

 人間というのはある歳にならないと、いえないことがいろいろあります。心の健康についての私なりの養生訓をアットランダムにあげておきましょう。70歳代だったらもう少し違った養生訓になったと思います。80歳代に入ったからいえることというのは、どうもありそうです。理屈を体験で保証できるようになったということでしょうかね。27項目ありますが、目を通していただければ、なかにはなるほどと思うことがあるはずです。
1 ほどほどであること
2 5分前に到着すること
3 すじを外さないこと
4 トップよりセカンドであれ
5 目標を持て
6 鈍才は人よりも毎日5分間よけいに仕事すること
7 後をふりかえるな、前向きで生きよ
8 おのれを責めすぎるな
9 気分転換を考えよ
10 取扱説明書は研究開発した者でなく無関係な者に書かせるべき
11 「てにをは」を粗末にするな
12 金に執着しすぎるな
13 友を大切にせよ
14 縦割り社会を横につなげよ
15 システム化は人の心をつなげることから始めよ
16 空間軸とともに時間軸を忘れるな
17 変化の節目を大切にせよ
18 生理的リズムを作り、それに乗っていくようにすること
19 応接間より寝室を重要視せよ。生活のなかで睡眠が最大限に重要と考えること
20 成長期のうちに仕事の能率を最大限に上げること
21 人間関係を大切にせよ
22 想像力をかり立てるものは、それに関連した情報である
23 情報収集能力と整理能力・検索能力は人間の大切な能力である
24 直感力を養うこと
25 夢を持て
26 全力投球
27 約束を守る
 ことこれらは体験のなかで得たことで、私が心の尺度にしていることでもあります。1の「ほどほどであること」というのは、精神訓話のなかで「なになにするほど良い」などといわれる、一つしかつかない「ほど」に反対だということです。酒は飲むほど良い、薬は飲むほど良い、睡眠はとるほど良い、という一つだけの「ほど」は、上がるだけ、下がるだけの線形方程式です。人間は違いますね。どこかに必ずピークがあって、その両側で曲線が下がるという特性を持っています。
 「鈍才は人よりも毎日5分間よけいに仕事すること」を6にあげておきましたが、これは私自身が子供の頃からやってきたことです。いま考えると、5分というのはなんとも「ほどほど」の努力です。それでも毎日5分という時間と、その5分にかけた意欲を積み重ねると、バカになりません。
 2の「5分前に到着すること」は、たとえば会議に遅れて人に迷惑をかけると心が痛みますね。心が痛むと、会議中ずっと心が発揚されない。
 心の健康というのは、毎日毎日のちょっとしたところにあるというのが、私の考えです。
 4の「トップよりセカンドであれ」というのは、セカンドのほうがストレスが少なくてすむとか、次の「目標を持て」とも関係します。ではすでにトップの人はどうするか。「トップはセカンドを大事にせよ」となります。20の「成長期のうちに仕事の能率を最大限に上げること」は、いってみれば若い頃にうんと高い、能率という名の山に登れという意味です。人間は20代のある時期から下降期に入り、能率が落ちていきます。これはやむを得ないことですが、高い山に登った人と低い山に登った人が同時に下り始めたら、高い山の方の人はまだま
だ中腹ぐらいのところにいるのに、低い山の人はすぐ下に着いてしまいます。
 この項目は、成長期を過ぎた人には抵抗があるかもしれませんね。もう間に合わないじゃないかと。でも、88歳になったいまの私から見ると、60、70は高齢者の成長期ですよ。高齢者にはいいことも随分あります。たとえば、短い睡眠時間ですむ、疲労の少ない働き方ができる。知恵がある、エネルギー消費量も少ない、感情も概して安定している。
 23の「情報収集能力と整理能力・検索能力は人間の大切な能力である」も、能率の観点から大切さがご理解いただけるでしょう。体の健康については、日常生活で運動を続けていくことが大切です。浦島太郎のおとぎばなしを思い出してください。龍宮城で楽しい日々を過ごして帰って来て玉手箱を開けてみたら、あっという間に白髪の老人となってしまった…という話には、ある種の教訓が含まれています。仕事もせずに(体を動かさずに)安楽な生活を送っていると老化が早くなるという教訓です。
 このことを強く裏づけたのが、無重量状態です。宇宙飛行で無重量状態に置かれると、体を支える必要がなくなるために骨が脆くなり、筋肉も循環機能も衰えます。これはまさに、体を動かさなければ人間として存続し得ないということを、神の声として知らしめているものと思います。
 心と体の健康を維持するためには、心と体を自分でセルフケアしていくことが大切です。構造や機能に個人差があり、考え方にも個人差があります。最終的には自分です。それに、健康というものを1日の時間の長さで見てみると、セルフケアに属する時間は実に長いということもあります。病気がなければ、それこそ1日中がセルフケアの対象にもなる。つまり、生活の大部分がセルフケアに属するということです。ですから、どうやってセルフケアしていこうかを真剣に考えていただきたい。そうでないと、私の話など単なる精神訓話で終わってしま
います。

サトルエネルギー(波動)に挑戦
──マイナスイオン──

 サトルエネルギーとは微少なエネルギーです。微少なエネルギーというと、波動水や気功のことが頭に浮かぶと思います。
 私は長年、医療の分野、生理学の分野で活動してきましたが、いまはサトルエネルギーという新しい分野でも一働きを求められています。人間は孤立しているわけでなく、環境という巨大な空間のなかにいます。環境に自分を開いているからオープン・システムなんです。サトルエネルギーの観点からいえば、人間も微少なエネルギーを出しているシステムですし、環境もそうです。
 この微少エネルギーをほかの分野と結びつけた一例が波動水です。農作物の生長に関わることができるという評価があります。音楽を聴かせると作物がよく育つという実験もある。音楽も波動ですよ。美しい花を見たり香りをかぐと人間は幸せですが、これなんかも花の出している微少エネルギーと関係あるかもしれません。医療の分野で考えると、中国の「気」、「気功」ですね。「気」という微少エネルギーは、従来は医療の分野で無視されてきましたが、ここからも新しい治療が開けてくる可能性があります。
 サトルエネルギーのなかでマイナスイオンに人気が集まっているのは、興味深いことです。人間には24時間の生理的リズムがあり、昼高くて夜低い。夜寝るときにマイナスイオンを出す寝具を用いるというのもおすすめできますね。
 森林や滝壺近くにいると落ちつくのは、空気がマイナスイオンを沢山含んでいるからです。汚れた空気の中にはプラスイオンが多くマイナスイオンは少なくなっています。マイナスイオンを多く取り入れることができれば、自然治癒力を高め、元気を蘇らせてくれます。
 マイナスイオンを取り入れはじめた15分後には副交感神経の働きが活発になり、交感神経が抑制されたという報告もあります。
 現代人に多い肩こり、頭痛、冷え性、便秘や不眠症、いらいらなどの体調不良は全身の機能をコントロールしている自律神経のバランスの乱れが原因の1つです。
 マイナスイオンというサトルエネルギーを人体に与えれば、生体自らの回復力、自然治癒力を強化して疾病を克服するというのはうなずける話です。マイナスイオンは、・自律神経の調節作用の他、・活性酸素・フリーラジカルの抑制、・新陳代謝の活発化、・炎症の抑制、・免疫力の向上、・血液サラサラ効果──などの働きが知られていますから、たいていの生活習慣病によいわけですね。これからはサトルエネルギー、なかでもマイナスイオンに注目が集まる時代になるでしょう。