人類の健康を支える発酵微生物・発酵食品

――発酵と腐敗の違い――

東京農業大学応用生物科学部 醸造科学科 小泉武夫教授

発酵という微生物の恩恵なくしては 人間は生きていけない

 世界中の長寿村と言われる地域では、長寿者たちが日常的に発酵食品を食べていることがよく知られています。
 世界各地にはその土地特有の発酵食品があり、日本の代表的な伝統的発酵食品というと、味噌や醤油、酢などの発酵調味料、また、納豆、糠味噌漬けなどを真先に思い浮かべますが、近年、こうした食品の多彩な効果が科学的にも解明され、発酵食品は今改めて人気を呼んでいます。
 発酵技術は食品だけでなく、薬品生産・酵素生産などの発酵工業(表2)から廃水の浄化にまで広く応用され、さらには私たちの腸内での食物の分解から地球の物質循環にも発酵という現象がかかわっています。
 福島県の造り酒屋に生まれ、幼少の頃から"発酵”の世界に接してきた東京農業大学の小泉武夫教授は、「発酵という微生物の恩恵なくしては人間は生きていけない」と力説されます。
"発酵食品”と聞くと世界中どこへでも飛んで行かれるという小泉先生に、発酵技術、発酵食品が人類の健康にどのように貢献しているかについてお話を伺いました。

発酵と腐敗の違い
発酵も腐敗も 微生物が主役

――発酵と腐敗は紙一重だと思いますが、まずはその辺りから教えて下さい。
小泉 例えば牛乳をそのまま放置しておくと、2〜3日もすると悪臭がして飲めなくなります。これは牛乳に腐敗菌が入り込んでしまうためで、この場合は腐敗です。それでは、乳酸菌を牛乳に入れるとどうなりますか? ヨーグルトやチーズになりますね。この場合は発酵というわけです。つまり、人間の側からすれば、発酵菌は善玉で、腐敗菌は悪玉ということになります。
 一方、微生物の側からすれば、発酵をおこすのは生きるためです。微生物も人間と同じように、摂取した栄養源を酵素の作用で分解したり合成したりしながら、その際に発生するエネルギーを使って生きています。例えば、納豆がヌラヌラしているのは納豆菌が大豆表面の原料を使って多糖類をつくるからですが、納豆菌はあのヌラヌラとした粘質物をつくりながらエネルギーを得ているのです。
 ですから、発酵物というのは、微生物がエネルギーを得る過程で生産される代謝副産物、廃棄物であって、それを人間が巧みに利用しているだけなのです。微生物には、人間のためにおいしいものをつくってやろうなどという考えは毛頭ありません。
 腐敗のメカニズムも同じです。腐敗菌は、人間にとっては役に立たない毒素などを生み出しながら生きるためのエネルギーを得ているのです。
――微生物にとっては発酵と腐敗の区別はなく、人間からみて役に立つかどうかが発酵と腐敗の分かれ目ということですか。
小泉 そうです。発酵も腐敗も微生物の生命現象の結果であって、彼らの都合で人間にとって良いものになったり悪いものになったりするわけですが、それは人間にとっての価値判断で、微生物にとっては全く関係のないことなのです。
 発酵をつかさどる三大微生物には、カビ、酵母、細菌があり、他に藻類やきのこ類(担子菌類)も発酵を行います。

健康を左右する 腸内の発酵と腐敗

――微生物による発酵と腐敗は、私たちの腸の中でも繰り広げられていますね。
小泉 私たちの腸の中には100兆個をこえる微生物がすみついて、そこにもまた善玉菌と悪玉菌がいます。
 善玉菌の代表格はビフィズス菌などの乳酸菌で、腸の中に送り込まれてくる食物を分解しながらエネルギーを得ています。その過程で乳酸や酢酸をつくり出して腸内を酸性に傾け、悪玉菌の増殖を防いだり、病原菌の侵入を阻止したりします。
 また、腸内でビタミン類を合成するので、私たちはそれを栄養源として利用することもできます。
 一方、悪玉菌の代表はウェルシュ菌です。肉や卵などの高脂肪・高蛋白食が十分に消化されないまま腸内に送り込まれてくると、そこで悪玉菌の作用によって腐敗します。
 このとき悪玉菌からはアンモニアや硫化水素、インドール、スカトールといった有害物質がたくさんつくりだされるのですが、これが腸から吸収されると、解毒機能をもつ肝臓を痛めたり、肌荒れ、頭痛、下痢、便秘、高血圧、動脈硬化など、全身の老化と成人病全般を促進するもとになります。
――腸内で善玉菌と悪玉菌のどちらが優勢になるかによって、全身の健康状態が左右されると言われますが、善玉菌を優勢に保つにはどうしたら良いでしょうか。
小泉 善玉の乳酸菌はもともと腸内にすみついている他に、食品からも体内に取り込まれます。糠味噌漬けや醤油、味噌などの発酵食品には乳酸菌が豊富なので、腸の中で善玉菌の勢力を増やすのに役立ちます。ただし、食物からとられた乳酸菌の効果は一時的なものなので発酵食品は毎日欠かさずとりたいものです。
 反対に、悪玉菌を増やさないようにするには、悪玉菌の餌になる高脂肪・高蛋白の食事を控えることが大切ですね。

健康・長寿と発酵食品発酵食品に込められた 驚くべき先人たちの知恵

――世界各地にはさまざまな発酵食品がありますが、特に長寿地域では日常的に発酵食品が食べられていると言われますね。
小泉 世界各地にはそれぞれの気候や風土を生かした発酵食品があります。その中には健康に良いことが経験的に知られているものがたくさんあり、人々の健康を支えるのに役立ってきたわけですが、近年、そうした発酵食品の機能・効果が科学的にも明らかにされてきています(表1)。
 伊豆七島の新島では、昭和40年代初めまで医者がおらず、土地の人々は昔から風邪や下痢、便秘などたいていの病気にくさやのあの臭いつけ汁を飲んで対処していました。特に、切り傷などの外傷にくさや汁を塗ると、これはもうてきめんに効きます。なぜ効くのかと言うと、つけ汁の中に生息するくさや菌などの微生物が、自分の子孫を守るために天然の抗生物質を出し、外から来た化膿菌などの雑菌をブロックするからなのです。
 目にも見えない微生物たちの偉大な働きと、それを巧みに応用した昔の人々の発想には本当に驚かされます。

糠味噌そのものも 飲むべし

小泉 江戸時代の庶民の知恵にも教えられることが多く、例えば糠味噌漬けにしても、当時は漬けてあるナスや大根などの野菜を食べるだけではなく、5日に1回はおちょこに糠味噌そのものを入れて水かぬるま湯で溶かして飲むと年中病気が防げると言われていました。
 糠味噌の原料となるのは玄米の表面をおおっている糠です。精白する際に取り去られてしまう部分ですが、糠には炭水化物や蛋白質、脂質、ビタミン、ミネラルが大変豊富です。これらを栄養源として、糠味噌の中には微生物が活発に活動しており、糠味噌1g中に実に日本の人口の30倍にも及ぶ30億個もの乳酸菌や酪酸菌、酵母などの微生物が生息しているのです。
 微生物の働きにより、米糠の蛋白質はグルタミン酸やアスパラギン酸、ロイシン、アルギニン、フェニルアラニンなど19種の重要なアミノ酸に分解されます。こうしてできたアミノ酸は、漬けてある野菜に吸収されて旨味となるばかりでなく、体内に吸収されると体をつくる重要な成分となります。
 また、米糠にはビタミンBやB、パントテン酸、ビオチン、イノシトールなどのビタミン類、カルシウム、マグネシウム、カリウム、リン、鉄、亜鉛、マンガンなどのミネラル類が含まれ、さらに微生物も発酵活動中にたくさんのビタミンをつくり出します。
 こうして、糠味噌の中には、糠味噌そのものにふくまれる栄養成分と、微生物がつくり出す栄養成分が豊富に含まれているのです。
 一方、糠味噌の中で中心となって働くビフィズス菌などの乳酸菌は、先ほどお話ししたように腸の中にすみついて整腸作用を行い、腸内で発酵しながら生きていく際に菌体の外にビタミンをたくさん出します。それを当時の日本人は腸管から吸収していたため、粗食でも耐えられたのだと思います。
 "糠味噌そのものも飲むべし”とはつまり、・糠味噌に含まれる種々の豊富な栄養成分と、・腸内でもビタミンをつくり出してくれる乳酸菌を確保するための教えなのでしょう。

今、最も注目される日本独自の
"麹”発酵食品

――昔から健康に良いとして知られている発酵食品ですが、そのメカニズムが科学的に解明されるにつれ、今後ますます注目を集めそうですね。
小泉 味噌、醤油、味醂、つけもの、甘酒、米酢、鰹節など、日本独自の発酵食品に用いられる"麹”は、これから特に注目です。
 麹は蒸した穀物に麹菌(麹カビ)が繁殖してできます。麹菌からつくられる麹酸には非常に強い抗酸化力があると報告されており、また、麹菌がつくるアスペラチンという物質にがん細胞の抑制効果があることも分かってきています。
 日本で発酵食品と老化予防に関する研究が始まったのは、昭和50年、当時国立がんセンター疫学部長の平山雄先生による"味噌汁を飲む人ほど胃がんによる死亡率が低い”という発表からでしたが(図)、この研究結果にも麹の影響があるのではないでしょうか。
 この他、麹菌のつくるアンジオテンシン変換阻害酵素には、血圧を安定させる働きがあると言われています。
――麹菌を使った発酵食品は、日本にしかないのですか。
小泉 ありません。麹を使うのは日本だけですから。カビを使う発酵食品としては、中国の酒やインドネシアのテンペなどもありますが、それはクモノスカビですからね。アメリカやヨーロッパ、アフリカにはカビ食文化はほとんどありません。その背景にはやはり、湿度が高くカビが生育しやすい日本の気候が関係しています。

医療の世界から 自然界の食物連鎖まで

――食品以外の分野では、発酵技術はどのように私たちの生活に生かされていますか。
小泉 発酵というと、一般の人は今までお話ししてきた発酵食品をまず思い浮かべると思いますが、それは今日における日本の発酵産業の17%程度でしかありません。今、有機酸、アミノ酸、核酸、抗生物質、生理活性物質、糖、酵素の生産など、さまざまな分野に発酵という手法が用いられています(表2)。
 特に医療の分野での発酵の活躍はすごいですよ。青カビから抗生物質のペニシリンがつくられるのは有名な話ですが、その他にも多くの医薬品製造への原料の供給、ビタミンやホルモンなどの生理活性物質、輸血時の代用血漿、臨床検査に用いられる酵素など、すべて発酵技術で生産されています。
 それから、非常に大きな分野が環境浄化発酵で、廃棄物や廃水の処理に活性汚泥やメタン発酵が用いられています。
 さらに視野を広げれば、地球上には5千億〜1兆トンと推定される莫大な動植物の死骸が出ますが、それが微生物の作用で分解され、自然界の食物連鎖につながっていくのも発酵の領域に含まれます。
 発酵という微生物の恩恵なくしては、地球の生命活動は成り立たないのです。
(取材構成・本誌岩橋)