香港のインフルエンザ騒動でわかった無防備な日本の新型インフルエンザ対策

高齢者には死に直結するインフルエンザ

日本鋼管病院小児科長 菅谷憲夫先生

毒力の強い鳥類のペスト
トリ型インフルエンザが人に感染!!

 香港風邪が流行してから30年。そろそろ新型インフルエンザウイルス出現の時期と警戒されていた矢先、香港で昨年8月、同5月に死亡した3歳の男子から鳥のインフルエンザウイルスが発見され、世界各国ではすわ、新型インフルエンザの出現かと警戒体制を強めています。
 今回のトリ型インフルエンザウイルス「A―H5N1」は毒力が強く、実際、香港では昨年春ごろから同じウイルスによって鶏が全身出血で大量死し、「トリペスト」とも呼ばれています。
 トリ型インフルエンザウイルスは通常、豚を介して人に感染しますが、それが直接人に感染したところから、香港では鶏が大量に殺されたり、鶏肉や卵の摂取が戒められ、消費が落ち込んでいます。
 それにもかかわらず、患者はその後も増え、今年1月現在で患者18人、うち6人が死亡しています。そうした死亡率の高さや、トリ型ウイルスが人に直接感染する珍しいケースに加え、日本ではさらに、今回の騒動で無防備なインフルエンザ対策が明らかになり、不安が高まっています。
 厚生省が昨年10月末に作成した「新型インフルエンザ対策の報告書」に携わったお一人、日本鋼管病院の菅谷憲夫小児科長は、「流行を直接的に防ぐにはワクチンしかない。新型ウイルスワクチンの緊急生産は日頃からのワクチン生産にかかっている。無きに等しい今の日本のワクチン体制では、新型ウイルスに対して全く無防備」と警告されています。
 万全なワクチン体制には、国民のインフルエンザ並びにワクチンに対する理解が必要と訴えられる菅谷先生に、お話を伺いました。

香港のインフルエンザは 新型インフルエンザか
新型インフルエンザは 10〜40年周期で大流行する

――今まで直接人に感染することはなかった鳥のインフルエンザが人に感染したというのは人間と鳥の間に親和性ができたからか、また、スペイン風邪並の死亡率と恐れられていますが、日本でも大流行する可能性はあるかなどから…。
菅谷 インフルエンザにはA型、B型、C型がありますが、そのうち流行するのはA型、B型です。A型は人だけでなく、鳥、豚、馬と広く存在し、B型とC型は人にしか存在せず、特に、C型は一般の風邪の原因ウイルスの一つで流行の心配はありません。最も大流行するのはA型です。
 新型インフルエンザは、鳥のインフルエンザと人のインフルエンザが遺伝的に再結合する(抗原不連続変異=shift。図1参照)ことによってできます。通常は、人と鳥のインフルエンザに同時感染した豚の体内で、両者のウイルスの間で遺伝子組み換えが起こって新型インフルエンザができ、それが人に感染するわけです。ただし、鳥のインフルエンザがそのまま人に感染する可能性は指摘されていて、今回の香港のは鳥のインフルエンザ「A―H5N1」がそのまま人に感染しています。
 新型インフルエンザは原則的には10年から40年周期で出現し、人々は免疫抗体をもっていませんから、世界的に大流行します。今世紀は1918年に大流行し、世界中で約2500万人、日本でも約40〜50万の人が死んだ「スペイン風邪(A―H1N1)」。それから40年後の1957年に出現した「アジア風邪(A―H2N2)」。さらにその約10年後に出現した1968年の「香港風邪」の3回出現し、これらは多少変異を起こしながら今も流行を繰り返しています。
 今騒がれている香港の「A―H5N1」を入れると4回目になりますが、今のところは局地的な発生で、感染者は20人未満と決して流行はしていません。死亡率は高いものの、新型インフルエンザの最大の特徴は感染力の強さですから、今、香港で騒がれているものが新型インフルエンザといえるかどうか。確かに鳥のインフルエンザが直接人に感染するという特殊なケースではありますけれども、鳥から直接来ている分、人から人への感染力は殆どない、あっても非常に弱く、このまま消えていく可能性の方が強いと思います。
 ただし、インフルエンザの大きな特徴の一つはウイルスの突然変異(抗原連続変異=drift)ですから、いつ変異を起こして人から人へ感染するようになるかも分かりません。そうなると、広がる恐れは十分あります。
――今回の感染ルートは、鶏肉や卵の摂取からですか。
菅谷 感染ルートは一応、接触感染ということになっています。汚染された鶏や鳥、或いは汚染された肉や内臓を触ったとかですね。経口感染は生肉を食べない限り大丈夫だろうと思いますが、生卵の摂取は香港では止めた方がいいと言われています。
 インフルエンザが流行するのは空気感染するからこそで、そこも通常のインフルエンザと違います。ただ、接触していないという患者もいて、汚染された鶏の糞を吸い込んだという可能性も示唆されています。

新型インフルエンザへの対策は 毎年のワクチン接種から
新型インフルエンザが 流行れば国民の25%が感染

――大流行するという新型インフルエンザは、どの位の感染力を持っているのですか。
菅谷 WHOをはじめ世界各国は、新型インフルエンザに対して国民の約25%を想定して対策を立てます。そうすると、人口1億2千万人の日本では、約3200万人の患者が想定されます。
 今回、日本で問題になっているのは新型インフルエンザが出現した時の対策ですね。インフルエンザの対策はいろいろありますけれど、根本はワクチンと抗ウイルス剤です。抗ウイルス剤は副作用の心配もあり、インフルエンザの流行を阻止するにはワクチンを大量に作って多くの人に打つことしかありません。
 ところが、現在の日本では、ワクチンを大量に作る体制にない。そこが最も問題なのです。今回騒がれている香港のインフルエンザも、いつ変異して人から人への感染力をもつか分からないですから、日本でもいざという時に備えて、ワクチン生産の準備はしておこうと今、国立感染症研究所でワクチンの株の選定が始まりました。
 ワクチンは、理想的には予測される約3200万人分位欲しいところですが、それでもそのうちの0・1〜0・2%、3万〜6万人の死亡は覚悟しなくてはいけません。ところが、日本では1994年に学童集団接種を中止して以来、民間の予防接種が殆ど行われなくなり、それに伴ってワクチン生産量もグンと減って、今70万〜75万本位しか作られていません(図2・3参照)。
 インフルエンザのワクチンは鶏の有精卵から作られます。それにはまず、雌鳥(無菌の)を大量に育てることが必要です。それを考えただけでも、ワクチンの製造を今の75万本から、3200万人分とまではいかなくても、少なくとも国民の1割にあたる1千万単位に上げるのさえ到底不可能だということがお分かりになるでしょう。
 しかし、仮に今の日本で毎年約1千万人の人が打っていれば、新型インフルエンザが出た場合にも3千万本位はすぐ対応できるのです。つまり、毎年のインフルエンザへのワクチン対策をしっかりやっていくことが、新型インフルエンザ対策になるわけですね。それなくしては、全国的に学級閉鎖をしようが、薬品を用意しようが、緊急対策本部を設置しようが、机上の空論に過ぎないんです。

老人にとっては 死と直結する病気
――接種率にみてとれる 世界との認識の差――

――日本の人口約1億2千万人に対して75万本では、新型インフルエンザの対応は無理ということですね。
菅谷 日本がワクチン生産をグンと減らしていった一方で、世界では1980年代から1990年代にかけて全力でワクチンの接種を増やしています。
 老人に対しては無料化してまでインフルエンザワクチンの接種を強力に推し進め、例えばアメリカでは1993年から65歳以上が無料接種となり、一昨年の接種率は65歳以上では55%になっています(図3参照)。また、フランスは1990年代の初め頃から70歳以上が無料接種となり、やはり70歳以上のインフルエンザの接種率は70%以上になっています。
 何故、こんなに接種率が高いかというと外国では、インフルエンザは老人やハイリスクの人達(表)にとっては重症で入院する可能性も高く、時には命を失う病気であることを、国民が十分理解しているからです。ですからインフルエンザワクチンの生産体制もしっかりしているし、接種体制もどこの病院に行けば打てるかというのが確立されてます。
 それに比べると日本は今、ワクチンの生産量から見て、老人のインフルエンザワクチン接種率は0・1%かそれ以下と、全く比較にならない状態です。
 当然、国民の意識も低く、日本ではインフルエンザは子供の間で流行る風邪ぐらいの認識しかありません。
――まず、国民のインフルエンザワクチンへの理解が求められると…。
菅谷 国民の全体が「インフルエンザは単なる子供の風邪ではなく、老人やハイリスクの人がかかると命に関わる大変な病気である」という認識を持ち、「この人達を守ってあげるには毎年のワクチン接種が必要とされる」という意識に変わることが必要ですね。
 老人やハイリスクの人達がインフルエンザで死亡した場合、死亡診断書には気管支炎とか肺炎とか、心不全などの病名になるので統計的には出て来ませんから、それで日本人はインフルエンザの怖さを知らないという面もあります。
 昨年の今頃(97年1月)、インフルエンザで全国の老人ホームのお年寄が200人、600人と亡くなりましたが、老人ホームは氷山の一角で、実際にはご家庭で暮らしている老人も多勢この季節にインフルエンザで亡くなっているわけです。

副作用情報も含めて ワクチンへの正しい理解を
学童集団接種はなぜ 取り止めになったか

――ワクチンを打たなくなったのは国民の無理解が大きいということですが、厚生省や医療関係者のPR不足もあるのではないですか。
菅谷 私はマスコミに対して繰り返し、先進諸外国では「なぜ無料にしてでも老人に接種しているのか、接種率が年を追う毎に上がっているのか、それは結局ワクチンが有効という証明である。さらに、無料接種に踏み切ったのは、それによってむしろ老人医療費が下がることが証明されたからだ」と説明するのですが、そうした話はあまり伝わらずに、今度のような騒ぎがあるとやたらに国を叩くのはおかしいと思います。
 マスコミはこれまで――インフルエンザは子供の病気で、受験で忙しい今の子供はたまにインフルエンザで学校を休むのも良い、大人の場合でもいつも帰りが遅いお父さんが風邪で家にいれば家庭団欒になる、或いはこれほど無茶苦茶でなくとも、インフルエンザワクチンは効かない、副作用が強い――というワクチン反対者の論理ばかり国民に知らせてきました。こういう情報が広がれば誰もワクチンを打ちませんし、それに対し厚生省も強制は出来ません。
 今、新型インフルエンザでアタフタしている責任は誰にあるかを問うのはあまり意味がありませんが、最終的にはマスコミを含めた国民の責任というか、国民がきちんと理解してコンセンサス(同意)を得て、できるだけ老人やハイリスクの人達への接種を進めていかなくてはいけないと私は考えています。
 その上で、国民のコンセンサスが得られたら、厚生省にはぜひ、無料接種に踏み切っていただきたいと思っています。

ワクチンは集団でなく 個人の責任で接種を

――学童への集団接種が取り止められたのは、インフルエンザではなく、3種混合ワクチンの副作用が取り沙汰されたことが一番大きかったと思いますが、インフルエンザワクチンの副作用は心配ないのですか。
菅谷 インフルエンザワクチンの副作用は今おっしゃった百日咳・ジフテリア・破傷風のいわゆる子供の3種混合ワクチンに比べてずっと低く、安全なワクチンと言われています。それでもやはりある一定の割合、日本では300万人に1人位の割合で脳の後遺症や死亡例が起きています。
 しかし、今、日本に新型インフルエンザが出現すると、老人やハイリスクの人達を中心に3万〜4万人の人が死ぬと言われています。
 ですから、私はワクチンの重要性だけを強調するのではなく、副作用情報も正確に国民に知らせ、それを納得した上で希望する人がいればワクチンを打てば良いと思います。国民の理解というのはそういう意味で、事実を知った上で接種するかしないかは個人の自由に任せるべきだと思います。
 私は学童の集団接種を中止したのは賛成です。学童はインフルエンザにかかっても入院するほど重症になるケースは少ないですし、まして死ぬことは非常にまれですから。
 もともと学童の集団接種は、学校がインフルエンザ流行の増幅場所になるとして、結果的に社会への流行を阻止する、老人とハイリスクの人達の被害を減らす目的で行なわれたのです。しかし、人口密度の高い日本では、学校に限らず、通勤電車でも、会社でも、病院でも、殆どどこでも流行の増幅場所になっていますし、また、大人の活動範囲も広くなっているので、学童の集団接種はあまり効果がなかったのです。
――乳幼児はどうなんでしょうか。
菅谷 小児は日本で毎年、数千人から1万人程度入院しており、その殆どは低年齢の乳幼児です。
 インフルエンザでは高熱が出ますから、インフルエンザから熱性痙攣を起こしたり、熱が長く続くと脱水症状を起こしたり、あるいは気管支炎や肺炎を起こすケースもあります。また、インフルエンザによる脳炎では死亡率が高く、後遺症の率も高いです。しかし、死亡例は老人などに比べるとまれで、発症率からいうと、必ずしもワクチンを打つほどの率ではないと思います。
 また、低年齢の子供はワクチンの効き目が低く、特にB型にはほとんど効きません。

ワクチン以外の予防方法
ワクチンと同等の有効率
アマンタジン

――いづれにしろ、新型インフルエンザに対して日本ではすぐワクチンが間に合う状況ではありませんね。流行った時にお年寄りだけでも予防する手立てはないのですか。
菅谷 日本ではパーキンソン病や脳梗塞の後遺症に、アマンタジンという薬が20年前から広く使われています。インフルエンザの薬としては認められてなく、健康保険の適用もありませんが、有効率は約70〜80%とワクチンと遜色ありません(図4)。新型インフルエンザに対しては、ワクチンが出来るまでどう頑張っても株の選定から始めて半年位はかかりますから、その間の予防にこのアマンタジンは大変有効です。
 予防だけでなく、毒性が強くて重症化した場合には効果は低いものの治療に使われることもあり、実際に香港では今アマンタジンを治療に使っています。また、患者さんたちに直接接触した医師や看護婦、患者の家族にも予防として飲ませています。
 それと、毎年のインフルエンザに対しても、卵に対する強いアレルギーのある人はワクチンを打てないですから、その場合アマンタジンを使うということもあります。
 こうした理由から、アマンタジンは毎年のインフルエンザにも、ワクチンを補う形でオプションとして使えるようになった方が良いと思います。副作用も多少はあることです。そのためには、きちんとしたガイドラインを作成して乱用を防ぐべきです。
 私個人としては万が一、香港のインフルエンザが日本で流行るとなれば、老人ホームのお年寄に使いたいですね。老人が集団生活をしている老人ホームではインフルエンザが流行りやすいのですが、ワクチンもやってなければ、アマンタジンも使われていない。うがいとマスクと手洗い、部屋に加湿器という方法では、老人ホームのお年寄をインフルエンザから救うことはとてもできません。

一般的な風邪の予防対策

――うがいや手洗い等は気休め程度の効果しかない?
菅谷 本当に科学的にインフルエンザを予防する方法はワクチン以外ありません。
 ただ、若くて元気な人達は、ふだんから睡眠を十分とり栄養のバランスのとれた食事に心がける、手洗いやうがいの励行、外出時のマスク、人込みを避ける――等の一般的な風邪予防対策もある程度有効ですし、実行して欲しいと思います。
――一般の風邪とインフルエンザはどう違うのですか。
菅谷 一番大きな違いは伝染力です。普通の風邪はライノウイルスという鼻風邪ウイルスが主で、殆どが接触感染です。ですから、身近な人にしかうつらないのに対して、インフルエンザは空気感染ですから横の広がりがあります。
 もう一つの違いは症状の重さ。普通の風邪は37〜38度の微熱程度ですが、インフルエンザの場合は大人でも39〜40度の高熱が出ます。
 そして、最も重要なのが先ほどから言っているように、老人やハイリスクの人達がかかると入院率や死亡率がグンと高くなるということです。
――最後に、抗生物質はウイルスに効かないということですが、風邪をひくと抗生物質を打たれるのは?
菅谷 抗生物質はウイルスには効きませんが、風邪から細菌性の肺炎や気管支炎、中耳炎などを併発することがありますから、そういう時には抗生物質が有効です。
(インタビュー構成・本誌功刀)